プロフィール

野風ヤマミチ

Author:野風ヤマミチ
1980年よりフリーランスフォトグラファーとして活動。1990年ごろから環境問題の雑誌に関わったことをきっかけにエディター、ライターも兼ねるようになる。時を同じくして子供の頃より関わってきたボーイスカウト活動にリーダーとして復帰する。2001年ボーイスカウトの制服を脱いでからノンフォーマル・エデュケーション(野外教育、環境教育、冒険教育等)を仕事の柱に据え活動、執筆をしている。
現在シングルトラック・プロジェクト野風を主催、マウンテンバイクのスクール&ガイドインストラクター、小中学生の野外活動インストラクター等も務める。
1960年東京生まれ 趣味 手作りの道具で野宿、焚火、山旅

資格
日本マウンテンバイク協会 B級インストラクター
INBA ナショナル・マウンテンバイク・パトローラー
WMA ウィルダネス・アドバンスド・ファーストエイド取得
WMA ウィルダネス・ファースト・レスポンダー取得
AHA  ハートセイバー・ファーストエイド ハートセイバー・CPR・AED 取得


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まとめ

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本日はニシガワ大学に裏口入学www

友人のたみぃが関係する、ニシガワ大学の講座が本日あると気付いたのは昨日の事。彼女の所属するNPO法人モンキーマジック代表の小林幸一郎氏の“見えないチカラ”予告編という講座。彼はパラクライミングの日本代表でもある。
ハンディキャップとアウトドアにはボーイスカウトのリーダーの頃から興味が有ったので是非受講したいと思うが申し込みは終わっている、早速たみぃに連絡して「受講したいのだけど」と聞くと「OK」との返事。だから、裏口入学www
というわけで、火曜日の大菩薩峠MTBツアーの下見の足慣らしも兼ねて自転車で渋谷へGO。

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写真上 本日はニワ大とシブ大の共催です。
写真下 これがヤマミチの通称“マウンテンロード”


講座の内容は
◎DVD“見えないチカラ 視覚障害者の見つけた明日への希望”(第一回パラクライミング世界選手権)の上映。
◎参加者、サポーターとの対談。
◎障害者を理解する為のワークショップ。

そして、面白かったし今まで気づけなかった事にも気づく機会を貰った。
それは、ワークショップの中でのゲームでの事。
盲目の天才画家とその助手というそのゲームは、二人一組となり一人は天才画家、もう一人がその助手。画家は助手の指示通りに風景の絵を描くのだ。一回描いた後に、画家は今度は目を開けて記憶だけでその絵を描く。
このゲームの振り返りの時の小林氏のひとこと。
「助手をしている時、画家が何を望んでいるか考えましたか」と参加者に問いかけた。
この言葉に、僕は久しぶりに頭をガツンとやられた。
そう、僕が助手の時、絵を描かせる事ばっかり考えて指示をだしつづけ相手の事は考えていなかったのだ。
絵の出来の良しあしよりも、助手は画家の手足目にならなければいけなかったのに。
判っているつもりでも所詮健常者目線でしかモノを見ていなかったと痛感。
“相手を思いやる”という言葉があるけれど、それはそれ相当の想像力がなければできない事、健常者同士でも。ましてやそれが健常者と障害者となると健常者の“相手を思いやる”という言葉は想像力を創造力に変えなければ出来ないのかもしれない。これは、野外活動のインストラクター、WFRの資格者としても重要な事に思えた。
はぁ、久しぶりに良い勉強をさせてもらった。小林氏と裏口から入れてくれたたみぃに感謝。
モンキーマジックのHPはこちらから

と、その後の交流会にも出たかったのだけれど5時に友人と吉祥寺で待ち合わせ。今4時15分、30分で吉祥寺まで。道は表参道の交差点を左折して井の頭通りを真っ直ぐなので何も考えずに久しぶりに飛ばした。途中ローディに一台だけ抜かれたのだが、彼のバズーカ砲のような脹脛を見て納得www
4時45分、待ち合わせの井の頭公園に到着。井の頭公園で待ち合わせと言っても♂です(T_T)仕事のデータの受け渡しwww
彼は入稿の為とんぼ返り、なので僕は一服( ^^) _U~~
イヤ~、井の頭に住んでいた頃からの変わりようには目を見張るモノがある井の頭公園。お祭りというより、外国のフェアに近い賑わい。フリマに大道芸にミュージシャン。

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この写真のおじさんはまるで和製ハンク・ウィリアムス。いい味出していたwww
と、ほっこりとさせてもらったヤマミチでしたwww
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福島にて 原発についての個人的考察 その後

福島市と郡山市へ行って来た。震災後初めての東北。
あれ以来ずっと考えていた自分というパズルのピースが、収まる場所を見つけたと確証を持てたから。それが、みんなの森財団が今年の夏も行う、福島っ子元気村キャンプ。

今回、春のキャンプ報告と夏のキャンプの説明会ということでの福島行。
僕の目的は、実際の福島をこの目で見て来る事。

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何も変わらないような顔を見せる福島市と東吾妻山

前日泊まったホテルから会場の福島テルサへ歩いて向かう、目の前を通学の高校生たちが自転車でいつものように学校へ向かっている(きっといつもの様になのだろう)。何も変わらない風景であるけれど、ここは僕の住む東京の多摩地域より線量で最低20倍ぐらいの差が有るはずの場所。この線量が身体にどう影響するのか誰も本当の処を知らない、だから怖い。僕は短期滞在者ではあるけれどやはり心は重い気持ちになる。その気持ちと、この青空と、通学風景がどうもミスマッチで心が落ち着かない。

そんな気持ちで横を通り過ぎる彼らを見、会場へ向かう。

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報告会が始まる。
スクリーンに映し出される我が子の写真に参加してくれたお母さん達から笑い声があがる。
この場面だけを切り取れば、同じ状況だったら日本全国共通の様子なのだろうが……
みんなの森からの報告も終わり休憩をはさんで今回の本題に入る。それは、福島側のお母さん達による保護者会の立ち上げを提案するという事。

お母さん達の話を聞いていくと、保養キャンプという名目で福島の子供たちを受け入れている団体は沢山あるのに、福島にはそれに参加しない子ども達が沢山いるのは何故だろうという疑問が解けて行った。それは、情報の不足、福島側と受け入れ団体側のミスマッチングが主な原因ではないかという結論に達した。

この手の情報を探せるのはパソコンを使う一部のお母さん達で、大部分のお母さんは携帯メールが主流。周りにそういうお母さんがいないと情報が入らない。そういう情報が入っても団体によっては参加が抽選だったりグループ参加は禁止だったりと条件に合わないことも多いとのこと。そこで、次はお母さんたちの望む事を聞いていく事に。結果、終了時間になっても話が終わらない。僕らも話を聞き足りないし、お母さん達も話足りない。逆に、これからお母さん達の本音が出てくるのではという勢い。

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お母さん達の話を聞いている間、子ども達はガメラ(吉沢氏)とレクタイム。室内で騒げないという制約の中、1時間でここまで手なずけてしまうガメラ、さすがです。今回はお母さん達の話を聞くためにその技は盗めなかった、残念www

撤収後、即行で郡山市へ移動。昨日は夜来た為に街の様子は見られなかったが、昼間にじっくり見ると、所々に震災の後もある。東北道に乗ると二本松市の外れから山を抜ける為登りになる。地形的に福島市より二本松市の方が線量が高いという理由が一目瞭然。

郡山市到着、市役所の駐車場に車を止める。市役所はフェンスに囲まれ修理工事中、窓ガラスは所々ベニヤ板で塞がれ、窓からは天井の落ちた部屋もあちこちに見える。後から聞いたのだが、ここでは郡山市でただ一人震災で亡くなった方がいたそうだ。 合掌

会場となる市役所裏の福祉センターへ。


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郡山市での報告会の様子

お母さんの話を聞き取りする後半は、今度は僕が参加してくれた小六の女の子3名とレクタイム。正直僕は娘を育てた事がないのでこの年代の女の子とのどう関わっていいのか判らず、市役所の目の前にある開成公園へお散歩して彼女達から学校の話を聞く事に。話をまとめると、行政が除染を行った場所ではもう線量を気にせず普通に生活しているとのこと。除染したという事実をそのまま素直に受け入れ、それ以上は気にしていない(気にしていられない)とも言っていた。それを裏付けるように公園では小さい子たちが遊びまわっている。勿論彼女達の内心は他の所にあったとしても、表面上はもう済んだ事として扱っているように僕は感じた。

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開成公園バラ園にて。何事もなかったように咲いている春のバラ

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公園のあちらこちらにこんな看板が立っている。この除染後の0,5という数値は事故前の約10倍の値である

あるお母さんの言葉
「子供の将来のことが不安になる。就職のこと、結婚のこと、出産のこと。県外にでてつらい思いをするのなら、県内の子供どうしで結婚した方がいいのではと考えてしまう。」

理不尽とか不条理という言葉が浮かぶ、そこに輪を掛けて、遣る瀬無さとかやり場のないとか宙ぶらりんの言葉が絡まる。そんな中で人々が何事もなかったかのように生活している。

帰りの車の中であまりにも重いモノを自分で背負い込んでしまったなと思った。中途半端に関わるのが嫌で、時期が来ればお役が回って来るとも考えていたのだが。
自分のやれる事を精一杯粛々とやるだけと決心を新たにするヤマミチでした。

原発についての個人的考察 その2


〔雨ニモマケズ〕

宮澤賢治

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ


小学生の頃は高村光太郎の「道程」が好きだった。中学生の頃は背伸びしてライナー・マリア・リルケ。高校生でランボーに目覚め、憧れ、好きに生きてきたが年食ったらいつの間にか「雨ニモマケズ」になっていた。この詩(?)には実在のモデルがいるという、それが斉藤宗次郎。興味深い人物です。

この詩に傾倒していったのは、きっと夢を見ることより理想(あくまで個人的な理想ですがw)を追求しそれに近付く事に人生が熟成されてきたからだろうか。
特に『南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ』と『ジブンヲカンジョウニ入レズニ』のくだりはいつも涙してしまう。TwitterやSNSなんかの意見を読んでいると、『タニンヲカンジョウニイレズ』ばっかりが目についてしまう今日この頃。

僕は原発反対で脱原発でもあるけれど対案なき意見を簡単には表明できないし、ましてや顔の見えない他人に棘のある言葉は掃けない。
ただし、放たれてしまった放射能の線量や震災瓦礫に含まれる放射線の問題だけは別。これだけは言いたい。

誤解を恐れずに言うなら、この起きてしまったことについては日本中で分かち合うしかないように思う。
もしくは福島を日本から切り離して捨てるかだろう、出来るもんならね。
反対意見を言いたいなら対案付きでお願いしますねwww【棘】

福島から避難した子供たちへの無知による差別やいじめ、福島在住の女子中学生達は将来の自分達の結婚や妊娠に対しての不安を語っている現状。低線量放射線による被爆よりよっぽど問題な気がする。
世界で唯一原爆を落とされ、その後の放射能で苦しんだ人達をたくさん見聞きしてきた国の人間とは思えない話が山のようにある。そして実際に福島の人たちは苦しんでいるし、それ以上に福島から移住してしまった人達が苦しんでいる。そして、このままいくと10年、20年後にこの問題は大きくなると思う、今の子供たちが大人になった時に。

では、僕らに何が出来るのだろうか。そんな自分の思いの中、縁あってみんなの森財団という団体と知り合った。森林ボランティアの団体なのに、今年の春1ヵ月の準備期間で20数名の福島の子供たちの保養キャンプを実現させてしまった。それも1週間、費用は財団持ちで。
何度かここの活動に顔を出させてもらっている間に自分の決心も固まった。僕のできることで協力しようと。そして、今後最低10年はこの活動を継続させる。今の小学生達が大人になり、放射能の問題と直面した時に、それに負けない心を持った子にしたい。それには最低でも、昔自分達を理解し応援してくれた人たちがいたという小さな思い出でも良いから残してあげたい。自己満足で終わってしまうかもしれない。でも、やると決めたのだから前進する。そして「雨ニモマケズ」の詩のようにサウイフモノニワタシハナリタイ。

〔道程〕

高村光太郎

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため


そして、明日からお母さん達の組織を立ち上げに福島へみんなの森の仲間と行ってきます。


原発についての個人的考察 その1

富士見パノラマCコース“野風”のスクールにて

「じゃあ、ゆっくり行きますから着いてきてくださいネ」と声を掛けコースイン、「ブレ~キ」、「離す」、「インに振って」、「バンクにタイヤ当てて、腰引いて~」、「ハイ、ブレーキ」と僕が叫んでいる。ここはダウンヒルの聖地と呼ばれる富士見パノラマのCコース。全長7.2㌔高低差800㍍日本で一番長いダウンヒルのコース。他にBコースとAコースがあるけれど、Bは無茶苦茶テクニカルで初心者では歯が立たないし、Aは自転車競技連盟の公認コース高低差800㍍を4㌔で下り切る高速コース、クロスカントリー用のマウンテンバイクのブレーキでは歯が立ちません。
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Cコース入口。この後ろの林の暗い穴のような所に飛び込んで行きますw

今日は、つい半年前までビギナーだったスクール参加者のパノラマCコースデビューの日。逆に言ったらヤマミチのインストラクターとしての力量が試される日でもある。もし、僕の教えたことが参加者達の力量に合っていなかったならそれは大きな怪我に繋がってしまうし、また参加者達が怖い思いだけをして楽しめなかったらそれもイベントとしは失敗である。
参加者もドキドキならヤマミチもドキドキなのであるwww
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二人のこの笑顔を見てほっとするヤマミチでした

STP野風としてスクールを初めて一年経ち、次にどんなプログラムを展開しようかと考えたのがこのパノラマデビュースクール。アドバンスのスクール1回とトレイル走行2回を経た後パノラマデビューという内容。いつものビギナースクールから始めると半年かかるプログラム、果たして参加者はありやと心配したけれど3人が参加してくれて、今回のパノラマはそのうちの2名のデビューとなった。
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ここに来る8割のライダーはこんな感じの完全装備。僕らのような里山スタイルは少数派

このCコース、エリートクラスのライダーだったら10分代で走り切る、速いアマチュアで15分代、僕らの乗るクロスカントリー用だったら17分で下れたら御の字だろう。それも身体が持てばの話しであるがwww初めての人が5分も乗ると口にするのが「下りがこんなに疲れるとは知らなかった」という決まり文句。フクロハギとニノウデがパンパンになって指は力が入らずガクガク。知らない人には自転車に乗ってるのに何故と思うだろうけれど、ダウンヒルではペダルを水平にしてその上に立ち、膝と肘は曲げておく。ようするにペダルの上に中腰で立ってハンドルに手を掛けている状態でダートの坂道を時速30㌔以上でマウンテンバイクをコントロールしながら下って行くのだ。
スキーやスノーボードを初めて遊びに行ったら必ずスクールに参加するか、友達にきちっと習うかすると思う。マウンテンバイクも同じ、ビギナーのスクールでは「マウンテンバイクは自転車ではありません、サーフィンやスノボの板と同じモノなんです」という言葉で始まるけれど、今日はそのスノボの板のようにマウンテンバイクを乗りこなす日でもある。
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休憩中

2本目、今度はヤマミチが参加者の後ろを走りながらアドバイスを送る。「ブレーキ掛けないよ、我慢我慢」、「ハイ、ブレーキ―」等々。二人ともチャンとラインを自分で選んで走っている、OK。
あっつ、先頭を行くN君がジャンプスポットで飛びそうになる。「うわっー」と声を上げコースアウト。でも、しっかり腰を引きリアタイヤを流して事なきを得る。「OK、OK」とヤマミチ。
スクールで習った事をしっかりと行い転ばずにリカバリー。これが出来ればビギナーは晴れて卒業ですwww

3本目、ヤマミチが走る後ろを2人に着いてくるように指示。僕は6分の感じで流す。二人ともしっかりと着いて来てくれます。始め休憩所ごとにヤマミチとの時間差を測ったら1分以上開いていたのが30秒以内に収まるようになってきた。ここまできたらもう一人Cコースを走っても大丈夫。次にパノラマに来たら今度は3人で Bコースに挑戦しませうwww
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今回は3人とも輪行の電車でやってきました。パノラマから駅まで富士見町の田園風景をプチツーリング。我がスクールはあくまで里山MTBerを目指すのですwww

原発についての個人的考察

小学校低学年だったと記憶している。学研の科学という雑誌に「人工の太陽がやってきた 茨城県東海村」(こんな題名だったと思う)という特集が組まれていて子ども心に「おー、かっこいい」と思い、そんな村に住んでいる小学生がうらやましいと思った。

小学校高学年になり太平洋戦争を調べていた。オヤジに戦争体験の話を聞いている時にオヤジに見せてもらった写真集があった。「広島の記録」という昭和30年頃に出た写真集だった。内容は原爆投下直後からの日本人写真家による広島の記録。内容は勿論悲惨なモノ。ショックを受けた。その後、この核分裂エネルギーを制御して原子力発電を行っているという事を知る。まだ、ただの湯沸かし器だという認識は無かったwww

高校一年のとき下北半島で、行き場をなくした原子力船むつを見た。柵の向こうに小さく見える原子力船むつと青森の辺鄙なところにあるとは思えない厳重すぎる港の警備が印象に残った。

大学2年の春スリーマイル島の原発事故が起きるが対岸の火事、テレビの中で起こっている事にしか思えなかった。興味があったのは写真とバイクと登山とモデルをやっていた3歳年上の彼女の事だけwww

26歳の時チェルノブイリ原発事故。新宿はゴールデン街の飲み屋で仲間とズブロッカ(ポーランドのウォッカ、中にバイソングラスという香草が入っている)を飲みながら「電気消したらこの酒が青白く光るかも」と冗談を言う程度。長男が生まれていたので今は別れたかみさんはちょっと食べモノに神経質になっていたが。

28歳、ネパールへ取材旅行。ポカラを旅行中に日経新聞の記者と出会い、彼とゲストハウスの屋上でアンナプルナやマチャプチャレの頂を眺めビールを飲み理由は忘れたが原発の是非の論議になる。僕は原発反対、彼は原発推進の立場。僕はこの当時漠然と原発反対と思っていたので彼を論破できるはずもなく、納得のいかないまま彼の日本のエネルギー政策に不可欠な原発という説に屈する。(この当時には原発が大きな湯沸かし器という事は既に知っていた)

この取材旅行ではこの後の自分を考え直さなくてはいけないようなこともおきた。
ネパールから帰国する数日前にカトマンドゥー郊外のチベタン難民キャンプに取材に行く。ここで知り合った16歳の少女が近くのゴダワリ植物園を見て行くといいと教えてくれたので、ついでに案内をしてもらった。この植物園は珍しい高山植物やサボテンを多く栽培していて楽しめた。彼女と別れ際に案内のお礼を渡そうとしたが拒否されたので茶屋でチョコレートを大量に買い家族や兄弟と食べてと言って渡した。彼女は礼を言い受け取ってくれた、そして真剣なまなざしになり「このアジアで日本人として生まれてくる事は最高の幸せなんだよ」と言った。その表情は嫉みとかではなく、僕より一回り年下ではあるけれど素直な彼女の言葉だった。ネパールの難民キャンプで生まれ育ったチベット民族の彼女に国籍は無い。 彼女のこの言葉がなかったらその後の僕の目を向ける方向は随分と違っていたかもしれない。

30歳、美術出版社より“はまいさお人形作品集 夢のあとさき”撮影のため静岡県御前崎の砂丘へ行った時に初めて原子力発電所というモノを見た。広大な砂浜向こうに立つ巨大な建物群を見て正直怖いと感じた。そのすぐ側に宮城まり子氏が運営する“ねむの木学園”があり「そうか、ここなら土地も安いのだろうなぁ」と思ったのを悲しかったので鮮明に覚えている。

その後“Tera”という環境問題の雑誌に関わり、カメラマン以外にライター、編集の仕事に関わるようになる。バブルの残滓がまだ残るころ。世間ではそろそろヤバい時期に差し掛かっていたがバブル期に大きな成長を見せたこのeco業界はまだ金回りが良く(3年後までこの状態が続いた)こないだまで僕が仕事をしていた雑誌と比べればカラー1pの単価が今の4倍だった計算になるwww
(一人で企画、取材、撮影、文章、ラフレイアウトまで、ちなみのこの当時まだフィルム撮影で手書きの時代)

このeco業界に3年いて残ったモノは、“エネルギー収支と生物多様性”。これ以後この二つが僕の思想の中心となる。
そして、必然的にトイレのない家に住んでいるようなお隣の原子力発電さんにはNOとハッキリ言える根拠を持った。
参照: http://www.nuketext.org/mansion.html

これが僕の原発に対する意識の年譜である。
そして、20年たった今、福島第一原子力発電所の事故が起こり1年が経った。

この1年間、原発の問題を傍観してきて思うのは、勿論あまりにも乱暴な分け方なのは承知の上で、放射線を科学と感情、絶対値か閾値で言い争っているという事。細かく言ってしまえば僕が知っているだけでも、問題になっているセシウムは自然界にあるセシウムではなく原子力発電の際に発生するセシウム137であることや、微量の放射性物質が食物から体内に入り蓄積する内部被ばく等々様々な問題はあるが、これらはどうも科学と感情、絶対値か閾値という論点の道具として使われているとしか思えない。そして時間が経つにつれ原発反対派も賛成派も、その内部で同じ対立をしているように見えてしまう。それに良いも悪いも両方に拍車を掛けているのがインターネットということか。

僕の個人的な原発反対の理由は簡単だ、エネルギー収支が合わないからという事に尽きる。原発建設と原発の解体撤去、放射性廃棄物の管理これらに掛かるコストと原発の稼働年数を40年として生産できるエネルギーが最低一対一の比にならなければ収支が合わないわけだが、放射性廃棄物の管理を除いてもこの比は0,6対1だろうと言われている。ここに千年単位のオーダーのかかる放射性廃棄物の管理が含まれると左辺はドンドン値が下がるのは一目瞭然である。そして今回のような事故がひとたび起きればその値は限りなくゼロに近付く。

そして何故こんなことになったのか。それは原子力を使うモノに共通して言える事だけれど、設計して作ってしまったらトライ&エラーによる改良ができない(限りなくできずらい)という構造上の欠陥の上に成り立っているからに他ならない。もし、そんな事をしようものなら毎回の改良の度に高濃度に汚染された廃棄物が大量に出てしまいエネルギー収支を下げるだけだからだ。

僕が原発に反対する理由は以上だが、起きてしまった事にどう対処するかは別の問題になるのだろう。その混乱がこの1年のあり様という事か。

つづく

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