プロフィール

野風ヤマミチ

Author:野風ヤマミチ
1980年よりフリーランスフォトグラファーとして活動。1990年ごろから環境問題の雑誌に関わったことをきっかけにエディター、ライターも兼ねるようになる。時を同じくして子供の頃より関わってきたボーイスカウト活動にリーダーとして復帰する。2001年ボーイスカウトの制服を脱いでからノンフォーマル・エデュケーション(野外教育、環境教育、冒険教育等)を仕事の柱に据え活動、執筆をしている。
現在シングルトラック・プロジェクト野風を主催、マウンテンバイクのスクール&ガイドインストラクター、小中学生の野外活動インストラクター等も務める。
1960年東京生まれ 趣味 手作りの道具で野宿、焚火、山旅

資格
日本マウンテンバイク協会 B級インストラクター
INBA ナショナル・マウンテンバイク・パトローラー
WMA ウィルダネス・アドバンスド・ファーストエイド取得
WMA ウィルダネス・ファースト・レスポンダー取得
AHA  ハートセイバー・ファーストエイド ハートセイバー・CPR・AED 取得


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原発についての個人的考察

小学校低学年だったと記憶している。学研の科学という雑誌に「人工の太陽がやってきた 茨城県東海村」(こんな題名だったと思う)という特集が組まれていて子ども心に「おー、かっこいい」と思い、そんな村に住んでいる小学生がうらやましいと思った。

小学校高学年になり太平洋戦争を調べていた。オヤジに戦争体験の話を聞いている時にオヤジに見せてもらった写真集があった。「広島の記録」という昭和30年頃に出た写真集だった。内容は原爆投下直後からの日本人写真家による広島の記録。内容は勿論悲惨なモノ。ショックを受けた。その後、この核分裂エネルギーを制御して原子力発電を行っているという事を知る。まだ、ただの湯沸かし器だという認識は無かったwww

高校一年のとき下北半島で、行き場をなくした原子力船むつを見た。柵の向こうに小さく見える原子力船むつと青森の辺鄙なところにあるとは思えない厳重すぎる港の警備が印象に残った。

大学2年の春スリーマイル島の原発事故が起きるが対岸の火事、テレビの中で起こっている事にしか思えなかった。興味があったのは写真とバイクと登山とモデルをやっていた3歳年上の彼女の事だけwww

26歳の時チェルノブイリ原発事故。新宿はゴールデン街の飲み屋で仲間とズブロッカ(ポーランドのウォッカ、中にバイソングラスという香草が入っている)を飲みながら「電気消したらこの酒が青白く光るかも」と冗談を言う程度。長男が生まれていたので今は別れたかみさんはちょっと食べモノに神経質になっていたが。

28歳、ネパールへ取材旅行。ポカラを旅行中に日経新聞の記者と出会い、彼とゲストハウスの屋上でアンナプルナやマチャプチャレの頂を眺めビールを飲み理由は忘れたが原発の是非の論議になる。僕は原発反対、彼は原発推進の立場。僕はこの当時漠然と原発反対と思っていたので彼を論破できるはずもなく、納得のいかないまま彼の日本のエネルギー政策に不可欠な原発という説に屈する。(この当時には原発が大きな湯沸かし器という事は既に知っていた)

この取材旅行ではこの後の自分を考え直さなくてはいけないようなこともおきた。
ネパールから帰国する数日前にカトマンドゥー郊外のチベタン難民キャンプに取材に行く。ここで知り合った16歳の少女が近くのゴダワリ植物園を見て行くといいと教えてくれたので、ついでに案内をしてもらった。この植物園は珍しい高山植物やサボテンを多く栽培していて楽しめた。彼女と別れ際に案内のお礼を渡そうとしたが拒否されたので茶屋でチョコレートを大量に買い家族や兄弟と食べてと言って渡した。彼女は礼を言い受け取ってくれた、そして真剣なまなざしになり「このアジアで日本人として生まれてくる事は最高の幸せなんだよ」と言った。その表情は嫉みとかではなく、僕より一回り年下ではあるけれど素直な彼女の言葉だった。ネパールの難民キャンプで生まれ育ったチベット民族の彼女に国籍は無い。 彼女のこの言葉がなかったらその後の僕の目を向ける方向は随分と違っていたかもしれない。

30歳、美術出版社より“はまいさお人形作品集 夢のあとさき”撮影のため静岡県御前崎の砂丘へ行った時に初めて原子力発電所というモノを見た。広大な砂浜向こうに立つ巨大な建物群を見て正直怖いと感じた。そのすぐ側に宮城まり子氏が運営する“ねむの木学園”があり「そうか、ここなら土地も安いのだろうなぁ」と思ったのを悲しかったので鮮明に覚えている。

その後“Tera”という環境問題の雑誌に関わり、カメラマン以外にライター、編集の仕事に関わるようになる。バブルの残滓がまだ残るころ。世間ではそろそろヤバい時期に差し掛かっていたがバブル期に大きな成長を見せたこのeco業界はまだ金回りが良く(3年後までこの状態が続いた)こないだまで僕が仕事をしていた雑誌と比べればカラー1pの単価が今の4倍だった計算になるwww
(一人で企画、取材、撮影、文章、ラフレイアウトまで、ちなみのこの当時まだフィルム撮影で手書きの時代)

このeco業界に3年いて残ったモノは、“エネルギー収支と生物多様性”。これ以後この二つが僕の思想の中心となる。
そして、必然的にトイレのない家に住んでいるようなお隣の原子力発電さんにはNOとハッキリ言える根拠を持った。
参照: http://www.nuketext.org/mansion.html

これが僕の原発に対する意識の年譜である。
そして、20年たった今、福島第一原子力発電所の事故が起こり1年が経った。

この1年間、原発の問題を傍観してきて思うのは、勿論あまりにも乱暴な分け方なのは承知の上で、放射線を科学と感情、絶対値か閾値で言い争っているという事。細かく言ってしまえば僕が知っているだけでも、問題になっているセシウムは自然界にあるセシウムではなく原子力発電の際に発生するセシウム137であることや、微量の放射性物質が食物から体内に入り蓄積する内部被ばく等々様々な問題はあるが、これらはどうも科学と感情、絶対値か閾値という論点の道具として使われているとしか思えない。そして時間が経つにつれ原発反対派も賛成派も、その内部で同じ対立をしているように見えてしまう。それに良いも悪いも両方に拍車を掛けているのがインターネットということか。

僕の個人的な原発反対の理由は簡単だ、エネルギー収支が合わないからという事に尽きる。原発建設と原発の解体撤去、放射性廃棄物の管理これらに掛かるコストと原発の稼働年数を40年として生産できるエネルギーが最低一対一の比にならなければ収支が合わないわけだが、放射性廃棄物の管理を除いてもこの比は0,6対1だろうと言われている。ここに千年単位のオーダーのかかる放射性廃棄物の管理が含まれると左辺はドンドン値が下がるのは一目瞭然である。そして今回のような事故がひとたび起きればその値は限りなくゼロに近付く。

そして何故こんなことになったのか。それは原子力を使うモノに共通して言える事だけれど、設計して作ってしまったらトライ&エラーによる改良ができない(限りなくできずらい)という構造上の欠陥の上に成り立っているからに他ならない。もし、そんな事をしようものなら毎回の改良の度に高濃度に汚染された廃棄物が大量に出てしまいエネルギー収支を下げるだけだからだ。

僕が原発に反対する理由は以上だが、起きてしまった事にどう対処するかは別の問題になるのだろう。その混乱がこの1年のあり様という事か。

つづく
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2012-05-26 03:23 | まとめwoネタ速neo

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